仮名草子「安倍晴明物語」⑥ 伝浅井了意作

太唐の城荊山文殊堂が炎上、伯道上人が来朝し、道満が殺される

唐土(もろこし)では、宋の太宗皇帝の時代に、太平興国元年十一月に、荊山の文殊堂が、理由もなく火が燃えて、一瞬の間に焼け落ちてしまった。伯道は、大いに驚いて「これはただ事ではない、きっと、日本の晴明の身の上に重大な事があったのに違いない」と思い、穀城山(こくじょうざん)に登り、はるかに東のほうを窺って、雲気を見ると、死の気があった。太山府君の法を行ったところ、壇上に、晴明の姿が、影のように映ったので、きっと、誰かに殺されたのに違いない。敵をとってやろうと、八字文殊一字金輪調伏の大法を行い、「ひとたび結んだ師弟の約束をどうして捨てることができよう」と、伯道上人は、一綬の舟に棹を差して、日本に渡った。都に上って、一条戻り橋の上で、晴明の家がどこかをお聞きになると、ある人が「晴明は、去年十一月に弟子の道満という者と争って、言い争いで負けて首を切られました」と言った。伯道は、そうかと思い、「さて、その塚はありませんか」とお尋ねになると、人は、「賀茂川下流五条川原の西の岸に埋められました」と語った。

伯道が、まっすぐに塚に駆けつけて見ると、上に柳が植えてあった。伯道は、すぐに、柳を掘って、草を引き捨てて、土に穴を掘ってみると、十二の大骨、三百六十の小骨、みな離れて、四十九重の皮、九百分の肉、十二の血筋は、朽ち爛れて流れてしまっていた。伯道が、これを一か所に集めて、生活続命の法を行われたところ、晴明は、夢から覚めたように元の姿になって、よみがえった。晴明は、合掌しながら、伯道にお礼を言って拝み、大いに喜んだ

伯道は「私は、唐土で、あなたに戒めの言葉三か条を与えた。多くの子ができたといっても女に心を許してはいけないと言ったのに、梨花の見た目がよいのにおほれて、心打ち解けた。大酒を戒めたのに、豊明の節会(とよあかりのせちえ)の夜の宴で、酒を飲みすぎて、前後不覚に酔っ払ってしまって、正気を失った。万事片手落ちで争いごとをしてはいけないと言い含めたのに、道満に出し抜かれて、一方的な言い分を論じて負けた。この三つの戒めに背けば、災難が必ずあなたの身の上に来ると言ったことは、こういうことではないか」と言って、晴明を連れて家に帰り、まずそばに隠して、伯道だけが内に入って、「晴明に会いたい」と申されると、道満が出て、「晴明は、去年十一月に、ある人と争って負けられ、首を切られて死んでしまいました」と言った。

伯道は「それは、きっと嘘でしょう。昨日、まさしく晴明に会って、今夜の宿を借りようと、固く約束しましたのに」と言ったところ、道満は笑って、「それこそ嘘でしょう。すでに、去年死んだ晴明が、昨日お会いするわけがありません。ここから東の方の五条川原の東の岸に、塚を築いて埋め、標の木には柳を植えてあります」と言った。

伯道が「晴明が、今もこの世にいて、ここに帰ってきたらどうする」と言うと、道満は、「晴明であるなら、私の首をお切りなさい。この世にいなかったら、あなたの首を切りましょう」と怒った。

伯道は、声をあげて「どうだ、晴明、早く帰って来なさい」と言われると、晴明がにっこり笑って内に入ってきたので、道満は肝をつぶして顔色を失い、座を立ち退こうとしたのを、伯道はすぐに両手を後ろにして堅く縛り上げた。天にも着かず、地にも着かず、つるしあげられて叫んでいる道満の首を、晴明が剣を抜いて、打ち落とした。妻の梨花が、このいきさつを見て寝所に逃げ入ったところを引きずり出し、首を切られた。同じ穴に埋められ、松が印として植えられた。今の世までも、五条川原の東の岸に、晴明の塚といってこれがある。後に、道満と梨花を、 またその塚に埋め捨てられた。時代が移り、その塚もみな流れて崩れ、深い淵となってしまった。

伯道は「もうこれでお別れです。いっそう一生を慎みなさい」と別れを告げ、太唐国にお帰りになった。晴明は、二十一日間、物忌みして、禁中に参上すると、「死んだとお聞きしたのに、あなたは亡霊でいらっしゃるか」と、人々が恐れ怪しみなさったので、件のことを、こまごまと帝に奏上すると、ますます並々でないこととお思いになった。 このため、四位の主計頭天文博士を、元のように再び任じられた。