仮名草子「安倍晴明物語」④ 伝浅井了意作

晴明、唐に入り、伯道の弟子となる
天皇が勅命で、「本当に、このような類まれな博士は、古代からもはやまれである。 ましてや末代にもないだろう。ますます、そのすばらしさを極めよ」と仰せになり、四位の主計頭(かずえのかみ)になされて、唐に遣わされる。家の留守は、道満法師に頼んで、妻の梨花を預けて、博多の津から船に乗り、綱を解いて海上に浮かび、はるばると、万里の波濤をしのいで、ようやく太唐の明州の津に着き、それから、帝に参内した。
唐土は、宋の太祖皇帝開宝年間のことである。 さて、帝が「陰陽暦数にすばらしさを極めたものは、誰かいるか」と尋ねたところ、ある人が、「薙州(ようしゅう)の城荊山の中に、伯道上人という方がいらっしゃいます。仙人の大道を得て、天文、地理の妙術を極めて、加持秘符の真理を悟って、名誉の上人です。いつから、その山に住んでいるのかと言っても、その初めは分かりません。昔から、今に及ぶまで、数百歳を重ねますが、外見はいっこうに衰えず、通力があって、いろいろな方面をめぐっています。遠い国、離れた島といっても、よくもまあ、二時間で行き来します。本当に、類いまれな上人です」と申し上げた。 帝は、「それなら、晴明を遣わして、その人に会わせよ」と、勅使を添えて、晴明をその荊山に送られたのであった。
伯道は、晴明を見て、涙を流して、「その昔、唐の天宝年間に、日本の使いで、安倍仲麿という者が、この国で殺され、再びの帰国の望みを失い、望郷の鬼となって、方々にさすらっていたが、思いは無駄ではなかったのだ。日本に帰って、今またここに来たのだ。あなたは、あの仲麿の生まれ変わりなのだ。だから、前世の才知を忘れず、今もなお、その知恵が昔よりまさっているのだ。陰陽、暦数、天文、地理、加持、秘符の深いことを、私に学ぼうと思うなら、身をも惜しまず、命をも顧みず、私に仕えれば、ことごとくあなたに伝えて教えよう」と言った。
晴明は、答えて、「万里の波濤をしのいで、ここまで渡った気持ちがあるのです。一向に身命を惜しまず、上人にお仕えし申しあげることには、木こり、草刈り、菜摘み、水くみ、どんな仕事でも、おっしゃる通りに間違いございません」と言った。伯道は、「それならば、三年間、毎日、三度ずつ萱(かや)を刈って、積みなさい」と言った。
晴明は、かしこまって、日ごとに、三荷の萱を刈り、夜になれば、深さ千丈の谷に、差し出た岩の上に、寝かせられた。危ないこと限りなかった。
こうして、三年にもなったので、伯道自ら、赤い栴檀(せんだん)を手に入れ、晴明の身の丈に比べて、文殊菩薩の大きな像を造り、堂を建てて本尊として、三年刈った萱で堂の上をふいた。今となってはもう、大事なことを伝えようと、二十一日、物忌みして、「簠簋内伝(ほきないでん)」の口伝を伝え、急いで日本に帰国すべきだと言って、加えて、三つの戒めを述べられた。「一つは、多くの子供ができても、妻に心を許してはいけない。二つには、大酒を飲んではいけない。三つには、片手落ちの議論をしてはいけない。あなたは、一生のうち、この三つを固く慎めば、行く末もめでたいだろう。もし、これにそむけば、災難が必ず身の上に来るだろう」と、晴明に別れを告げ、帰国させようとなさった。
太祖皇帝が、勅令を出して、晴明に帰国の文書」を与え、さまざまな宝物を賜って、順風に船の綱を解き、ほどなく晴明は、日本の博多の浦に着き、都に上って参内申した。
天皇の位は、円院の時代。天禄三年壬申秋八
月であった。帝が大層お褒めになり、晴明はそ
れから妙術を極めて、ますます類いまれなことを示したので、人がもてはやすことは限りなかった。