仮名草子「安倍晴明物語」⑨伝浅井了意作

花山院の出家を知る

花山院は、冷泉院第一の皇子として、御位にお就きになり、小野の宮殿の娘を、女御(にょご)になさった。弘徽殿(こきでん)にいらっしゃったので、弘徽殿の女御と申し上げた。ほどなく、お亡くなりになったので、帝の嘆かれようは、限りなかった。

帝が、世の中のすべてを心細く、思いがお乱れになる折から、栗田の関白がまだ、殿上人でいらっしゃった時に、お持ちの扇に、妻子珍宝及王位臨命終時不随者という心地観経の文を書いたのを、帝は、お手にとってご覧になってから、発心なさって、寛和二年六月二十二日に、厳久法師(げんきゅうほうし)藤原道兼のただ二人を召し連れて、貞観殿(ていかん)の萩戸(はぎと)より、忍び出られて、お年十九で、花山院で髪をおろしになり、法号を、入覚(にゅうかく)と申された。五畿内の霊仏霊地を巡拝され、紀州那智で三年修行され、不思議な現象が現れたので、都に帰り、花山寺に入って、真言灌頂をお開きになって、寛弘五年二月八日、四十一歳で崩御なさった。 御位に就いたのは、わずかに二年の間だった。

はじめ、ご出家があった夜、晴明の館の前を通りなさった時、晴明は、端近くに出て涼んでいたが、「帝座の星が急に座を移した。これは、天子が位を去られたしるしである。これは、そもそもいかなることか」と驚き申し上げる声を、帝は、物越しにお聞きになり、そこを、足早にお過ぎになった。晴明は、すぐに急ぎ参内して、このことを告げたところ、人々は驚いて帝をお探ししたが、はや行く方なく失せられていた。このように、晴明は、天文の道理に通達していた。

その昔、唐の太宗皇帝は、天下を治めて、太平の世とされた。 昔、 太宗がまだ官位がなく貧しい時に、厳子陵(げんしりょう)という友達がいた。 引きこもっていたのを、 太宗が御位に就いて後、呼び出して、同じ座の同じ布団に横になって、夜通しでお話をなさったが、厳子陵が足を、太宗の腹の上にもたせかけて寝ていた。司天台より、今夜、客星があって、帝の座を犯したと奏上した。太宗は、こともなく笑っていらっしゃった。このようなことは、よくその妙に通じずには分かりにくいということだ。