仮名草子「安倍晴明物語」②伝浅井了意作

安倍童子 鳥の話を聞き、晴明という名を賜る

村上天皇の時代、天徳四年庚申九月二十四日、後涼殿より火が出て、内裏が残りなく焼けてしまった。その次の年、見事に建て替えられて、なお、その昔を越える出来栄えとなった。

 このような時に、安倍童子天王寺に詣でて、本堂の軒で休んでいたところに、西と東より、鳥(からす)二羽が来て、堂の上に止まった。一羽の鳥が、さえずるには、「あなたは、どこの鳥ですか」と言った。もう一羽の烏が、答えてさえずるには、「私は、都の鳥です」。都の鳥が、「さて、あなたは、どこの鳥ですか」と言った。もう一羽の烏が、「私は、関東駿河の国の烏ですが、富士浅間大菩薩の使者として、熊野に参り、権現に申しあげることがあって行くのです。さて、都には、なにか変わったことはないですか」と言った。

 都の烏が「都では、このほど、帝がお悩みだといって、上も下もひっそりとしています。典薬頭(てんやくのかみ)は、心を尽くして、補瀉温涼(ほしゅうんりょう)の薬の材料を説明し、臣下の使いが薬剤を調合し、諸々の寺の高僧は思いをこらして加持護念の勤行をし、護摩秘法の祈りをなさいましたが、いっこうにその効き目がありません。これはもう、物のたたりなので、たたりを和らげられない限りは、どうやってお悩みをお治しすることができましょう」と言った。

 関東の烏はそれを聞いて「恐れ多くも、天子は、あらゆる人を支配なさるので、お位は尊く、神さえも恐れ敬いなさると申し上げますのに、物がうらみたたるということは、理解できません」と言った。都の烏が答えて、「天子は、天下国家の父母です。天下のあらゆる仲間は、みなそのお恵みを仰ぎます。そこに、邪悪になさる事があって、うらみ申し上げることがあると、その責めは一人に帰して、たたりとなることがあります。だから、天子は万事深く慎みなさって、むやみな行いをなさることはありません。下の憤りが天に通じて、天からの責めをお受けになる場合は、どうにもすべき方法がないのです」と言った。

 関東の鳥が、「さて、その憤りは、どんなことなのですか」と言った。都の鳥が答えて、「それこそ、去年、内裏をお造りすることがありましたが、夜の御殿(おとど)の、丑寅の柱(北東方位の柱)の礎の下に、へびとかえるが生きたまま建築により閉じ込められて、ヘびは、かえるを飲み込もうとし、かえるは、へびに飲まれまいと、戦っています。その怒りが天に昇り、ついに帝のお悩みとなったのです。これさえ取り除けば、わけなく快復するでしょう」とさえずって、北と南に分かれて、飛び去った。

 安倍童子は、このことを聞いて、家に帰って占ってみると、占文の差すところは、鳥の言葉と少しも違わなかった。まもなく、それから都に上って、天皇に申し上げたいとして、「私は、和泉の国、安倍仲磨の子孫で、安倍童子治明(はるあきら)と申すものです。天文、地理、易暦(えきれき)に、ひとりでにその知恵を悟り、天下に並ぶ者がない占いをいたします。早く、天皇のお悩みの原因を、占い申し上げたいのです」と申し上げた。

 公卿の詮議があって、それならば、まず占わせてみようということで、唐櫃の中に、柑子(こうじ)を四十八個入れてお出しになった。治明がしばらく占って、「楓の中にあるものは、生き物ですが、その形は丸い。疑いなく、四十八個の鶏の卵です」と申し上げた。公卿はみな、目くばせをして指を差し、大いに恥をみたと思われた様子である。それならば、ふたを開けようといって、主水司(とのもつかさ)がこれを開くと、思ったとおりに鶏の卵であった。これは、そもそも初めに入れさせたのは、まさしく柑子だったのに、どういうわけで卵に変わったのだろうと詮議があったが、初めに仰せをうけたのとは間違えて入れたのであった。「これほどまでに、占い申し上げることは、極めて珍しいことである」と言って、急ぎ、天子のお悩みを占わせられたところ、もとより烏が語ったことが占文と異なるはずはない。童子は、「これは、年月日を時にかけて、その方角をとると、丑寅の方の、帝のご寝所の柱の礎の下に、へびとかえるが戦っていて、その怒りが炎となって、天にさかのぼり、天子のお体に当たったのでございます。これを、掘り出してお捨てになれば、問題なく、お和らぎになるでしょう」と申し上げた。それならといって、掘らせになると、その通りで、お悩みもわけなくご快復されたので、帝から公卿や殿上人まで、感嘆なさることは、限りなかった。

 まもなく、童子の昇殿が許され、五位に任じられ、陰陽頭になさる。その日は、三月の節であったので、この日を名にお与えになり、安倍晴明とお呼びになった。引き続いて、除目(じもく)が行われ、易暦博士縫殿頭(えきれきはかせ、ぬいのかみ)になされ、天下にその名を広く及ぼした。まもなく、西の洞院に家を造って、地方の国にも下されず、禁中に伺候させて、安倍野のあたり三百町をお与えになった。