荘子【大宗師 二 真人の真知】

大宗師  二  真人の真知

しかし、知を超えた「真知」は、この弱点を伴わない。この真知をおのれのものとしたのが、「真人」である。

 

太古の世には、真人がいた。かれは、逆境にも不満を抱かず、栄達を喜ぶでもなく、万事をあるがままにまかせて作為を施そうとしない。失敗しようとも気に病まず、成功しようとも得意がらない。断崖のふちに立ってもおののかず、水に濡れず、火にも焼けない。これほどまで「道」と一体化しているのが、真人の真知である。

 

真人は、寝ても夢を見ることなく、目覚めている時も放心状態で、物を食べても味などは感ぜず、足のかかとから深くゆったりと呼吸していた。だが、現代に生きるわれわれはどうであろうか。われわれの呼吸たるや、ただのどもとで忙しくあえぐばかり、議論における発言たるや、敗残者の悲鳴さながら、欲望の深さが生命力を涸渇(こかつ)させているのだ。

 

真人は、生に執着せず、死をも忌避(きひ)しない。この世に生を受けたからといって喜ぶこともなく、この世を去るからといって悲しむでもない。ただ無心に来たり、無心に去り行くのみである。自身の存在をも一個の自然現象とみなし、死についてあれこれと心を煩わさない。与えられたいっさいを素直に享受し、しかもいっさいに執着を抱かずこれを自然に返す。知によって「道」を損なわず、人為によって自然を傷つけぬ生き方とは、このことである。真人とは、まさしくこのような存在であった。

 

真人の心は、無心そのもの、その挙措は動きのあとをとどめず、その額(ひたい)は高く秀(ひい)で、秋のように厳しく、春のように和やかである。その感情の動きは四季の推移のごとく自然であり、その精神のはたらきは変転する外界の事象に応じて限りない自在さを示す。