荘子【大宗師 四 天人合一】

大宗師  四  天人合一

真人は、変転する外界の事象に自在に応じてゆくが、けっして徒党を組もうとしない。ひとに先んじようとはせぬが、かといって意識的に下風(かふう)に立とうとするわけでもない。つねに独自性を失わぬが、かたくなではない。いっさいを受容するおおらかさを保って、しかも素朴である。顔色はいかにもはればれとして屈託なさそうだが、動作はつねに控え目である。時に憤然と色を変ずることがあっても、その本性はなんんら損なわれることがない。自己を固執せず世俗と同化しながらも、世俗を高く超越している。深い思索に没入しているかに見えて、無我の境地を逍遥する。

 

かれは、身体を「刑(けい)」とみなし、「礼」を衣服とみなし、「時」すなわち時々刻々の変化を知とみなし、「循(じゅん)」すなわち自然の摂理を徳とみなす。身体を「刑」とみなしているから、死を従容(しょうよう)として受け容れる。「礼」を衣服とみなしているから、世俗の規範に逆らおうとしない。「時」を知とみなしているから、事象の変化に順応できる。「循」を徳とみなしているから、いともやすやすと自然な本性に返ることができる。真人はこのように自然そのままの存在であるが、よそ目にはそれが努力の結果到達し得た境地のように映るのだ。

 

この真人の存在が示すように、われわれが好もうと好むまいと、あるいは認めようと認めまいと、天と人は一体なのである。ただ、それを悟ったのが「天の徒」であり、悟れずにいるのが「人の徒」であるという違いがあるにすぎない。人であると同時に天でもある存在、これが真人にほかならぬ。