荘子【大宗師 五「道」そのままに生きる】

大宗師  五「道」そのままに生きる
生死は、昼夜の循環と同じく、天の法則である。万物に貫徹する法則は、人為ではどうすることもでき
い。しかるにわれわれは、この冷厳な天をさえ、生みの親とみなして敬愛の念を抱く。ましてや、その天を生み出したものを、敬愛できぬ道理はない。またわれわれは、たかが一国の支配者にすぎぬ君主をさえ、主人とみなして身命をささげようとする。ましてや、万物の真の主宰者に帰依できぬ道理はない。乾上った池に棲む魚は、泥の上に身を寄せあい、たがいのあぶくで身を濡らしあっては、わずかに生を保とうとする。だが魚たちにしてみれば、かばいあって愛に生きるより、広々とした江湖を自由に泳ぎ廻ることのほうが、はるかに望ましいに相違ない。人間にしても同じこと、秩序の枠に押しこめられ、善を称揚し悪を排斥して暮らすよりは、普悪を超越して「道」そのままに生きるほうが、はるかに好ましいはずである。


人間の五体を与えられ、生を負うて苦しみ、老いを迎えて安らぎ、死を得て憩いにつく。これが人間の一生であるからには、生をよしとして肯定するのと同様に、死もまたよしとして定できるはずではなかろうか。にもかかわらずわれわれは、やはり生への執着を断ちきれず、汲々(きゅうきゅう)として生を守ろうと努める。たとえてみれば、舟を谷間に隠し、網を沢に隠して、安全だと信じきっている漁師のようなものであろう。いかに巧みに隠したところで、並みすぐれた力を持つ誰かが、夜陰に乗じて盗み去るかも知れないのだ。小さなものを大きなものの中に隠すというやり方では、いちちおうは隠すことができるとしても、失わないという保証はない。だが、こころみに天下を天下の中に隠してみるがよい。こうすれば、何ひとつ失われるものがないということは、明々白々たる道理である。


われわれは、ただ人間の形を与えられたというだけで、それを喜び大切にする。だが、人間としての形はまた事物の窮まりない変化の中の一様相にすぎぬと知り、変化に身を委ねてしまえば、その喜びは果てることがなかろう。だからこそ聖人は、いっさいをあるがままにまかせて、何物をも失うことのない境地に逍遥(しょうよう)しようとする。短命をも、長寿をも、生をも、死をも、すべてをひとしく肯定して、人々の師表(しひょう)と仰がれるのである。こうしてみると、万物を統括し、無窮の変化を生み出す「道」こそ、真の師というべきではないか。