仏教実践者のお話

ある人とテイクナットハン氏のやり取りがあったので掲載してみました。

「どうしたら自分を大切にできるのでしょうか。自分はそのような愛にふさわしくないと思っているので…」

「なぜそのように愛を拒否するのですか。あなたの先祖はみな、あなたの中にいます。あなたの細胞ひとつひとつの中に生きています。彼らは生きている間、充分な愛を受け取っていなかったのかもしれなません。でもあなたは愛する実践ができているのですから、自分を愛する事でご先祖にも愛を与えてください。あなたは自分を愛するとき、すべての先人に愛を与えます。それが 無我の智慧 です。あなたは独立した存在ではなく、親、先祖の継続ですから、自分を愛し大切にすると、あなたの中の親と先祖をいたわることができます。かれらへの優しさです。そういう実践は同時に周りの人への優しさでもあります。あなたが自分を優しくいたわる姿をみると、他の人もそうしたくなります。良い見本になります。自分を愛することで、他の人も大切にすることができるのです。これが「無我」の光です。」

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「私とは誰でしょう」

「海の波が自分に尋ねます。私は誰でしょう?海の表面の波が自分に問いかけています。波に自分に立ち返る充分な時間があれば、波は「自分が海だ」と知ることができます。波は波ですが、同時に海でもあります。波は、そのひとつの波であるだけでなく、他の波でもある。そして他の波とつながっていて、インタービューイング、相互に共存していることがわかり、もう自分と他者を区別することはなくなります。」

テイクナットハン氏の話
「仏教の中で、この言葉はとても重要です。すべてを含む阿頼耶識(あらやしき)も、中にある、すべての「種子」も本質は定められていない。良くも悪くもない、好きでも嫌いでもない。木そのものは、良くも悪くもありません。空気そのものも良くも悪くもありません。現実のありのままの姿をしているだけですから。例えばあなたの愛する人を見つめてみると、あなたの表層意識を通して見ているので、ありのままの姿で見てはいません。あなたが勝手に心で作り出した人を見ているのです。誰かに恋したとき、ありのままのその人に恋しているわけではありません。普通はあなたの心が描いている人に恋をしているのです。あなたの意識の表れです。しかし、阿頼耶識は違います。無分別の「智慧」があります。「これは泥だ、これは蓮」「私は蓮だけが欲しい、泥は欲しくない」と。そのように表層意識は働いています。いつも差別をしています。

苦しみを嫌がったり、消そうとするのではなく、優しさいっぱいに抱いてあげます。自分の苦しみと戦ってはいけません。しっかり見つめて、よくあやしてあげると落ち着かせることができます。苦しみ方を知ることは、慈悲と愛を生むことにつながります。慈悲には癒す力があり、慈悲と理解は、苦しみから生まれます。泥から蓮が生まれるように。

すべての方が優しさに包まれますように