7月カレンダー

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7月の行事

7月1日(金)山川海開き

7月2日(土)半夏生・七曜陵逼始・北斗日・六害日

半夏生夏至から数えて11日目。半夏生(はんげしょう)とは、半夏カラスビシャクという水辺に生える毒草のことで、この草が生える頃を半夏生と言います。このことから、天から毒気が落ちてくると忌む習慣がありました。農暦では、この日ぐらいまでに田植えを終える目安になる日とされています

七曜陵逼:この時期は吉凶が逆転する期間となりますが、内容は先月の欄を参照してみて下さい。今回の七曜陵逼は7月2日〜7月28日となっております。特に六害日はトラブルにならないよう細心の注意をはらってみてください。

北斗日:夜半(午後11時から午前1時)に北斗七星の神様が地上へ降りてこられます。この日は北斗七星の神へ礼拝すると、願事を得られると言われています。あと礼拝はそれぞれ生まれの管轄の北斗神へ祈ると良く、例えば子年生まれなら「貪狼星の陽明尊神」に祈るというような感じです。

【生まれ年と北斗の神の名前】

子  貪狼星 陽明尊神

丑亥 巨門星 陰精尊神 

寅戌 禄存星 眞人尊神 

卯酉 文曲星 玄冥尊神 

辰申 廉貞星 丹元尊神 

巳未 武曲星 北極尊神 

午  破軍星 天関尊神

7月7日(木)小暑・七夕・上弦の月・丁未月

小暑二十四節気)夏の気が近くなり本格的な暑さの前の小暑とも言えます。まだ梅雨の鬱陶しい日は残っていますが、土用も近くなってくる頃。太陽の黄経が105度。この前後に梅雨が明けることになります。

七夕:昔の宮中の七夕の夜は、清涼殿の東庭に葉薦(はごも)を敷き、御灯明と香花を供え、二星会合(星合)の様を望んだと言われております。牽牛星織女星が年に一度逢瀬を楽しむという、中国の漢代より二星を祭る風習と、わが国古来の「棚機つ女(たなばたつめ)の信仰と結びつけた星祭です。

☆七夕神話『天雅彦草紙』より
 昔、長者の家の前で洗濯していた女の前に大蛇があらわれて、この手紙を長者に届けてくれと頼んだ。手紙には「おまえの三人娘がほしい。さもなければおまえたち夫婦を殺してしまう」とあった。上の二人の娘は拒んだが、末の娘は父母を見殺しにはできないと、池の釣殿に自身を生け贄にする。ところが大蛇の中から現れたのは美男の貴公子で、二人は仲睦まじくなった。
 ある日、夫となった貴公子が「自分は海龍王で、急用があって天に昇るけれど、7日ほどで戻ってくる予定だ。もし帰ってこられないなら、西の京に一夜杓(いちやひさご)というものがあるから、それで天に昇ってきて、天雅彦はどこかと聞きなさい。ただしこの唐櫃だけは開けないように。開ければ自分は戻れなくなる」と言って、たちまち天に昇っていった。
 そこへ姉たちがやってきて、いろいろ詰問したあげく、唐櫃を開けてしまった。中からは煙が一筋立ち上っただけだったが、これでもう天雅彦は帰れない。やむなく一夜杓で天に昇って夫を捜すことにした。
 やっと捜しあてた夫はすばらしい宮殿に住んでいた。ところが、夫は自分の父が鬼であることを告げ、もし見つかったら食べられてしまうと心配をする。案の定、鬼が来て「人くさい、人くさい」と言い出した。天雅彦はそのつど妻を調度品に変えてごまかしていたのだが、あるときその暇もなく見つかってしまった。父親の鬼は妻を連れていき、自分は数千頭の牛を飼っているが、それを昼は野に放ち、夜は小屋に入れなさいと難題を吹っかける。
 妻は夫に教えられた呪文を唱え衣の袖を振って牛を動かし、難局を切り抜けていく。いくら難題を出しても解決してしまう息子の妻に、ついに父鬼は情を見せ、では二人の絆を認めてやるが、月に一回は一緒に暮らせるようにしてやろう、と言う。女はその言葉を聞き間違えて、年に一回と思いこむ。
 父鬼が手に持っていた瓜を投げると、それが天の川になり、二人を隔てた。こうして天雅彦は彦星となり、妻は七夕姫となって、二人は年に一度の逢瀬を契ることになりました。

7月8日(金)六害日

7月10日(日)甲子日

甲子の日は、大黒天をお祀りする日となっています。日本へは天台宗祖の最澄が伝えたとされていますが、主に食料をもたらす神として台所に祀られるようにもなりました。現代なら京都清水寺にも祀られております。天台宗比叡山には大黒天の出現に伴うお話がありますので、少しご紹介していきます。

最澄比叡山山麓の坂本で大黒天に逢ったのが、最初です。その時の大黒天は色が黒く、背丈が短く、体型は丸くふくよかで、目が細く、額には古くて黒い鳥帽子をかぶり、後ろに袋を担いで、手には槌を持っていた。そのものは一人であり、同行者はいない。この大黒天と出くわした最澄が「あなたは、どなたですか」と聞くと、「大黒天と申しまして、貧しい衆生に福を与えるために出現しました」と答えたという。大黒天があまりに色が黒いことから、最澄は「ずいぶん色が黒いですなぁ」というと、大黒天は「無明即法性の深理の現れです」と告げた。つまり黒の中に真理が包含されているというのである。また最澄は「背が低く、太っておられるのはどうしてですか」と聞いた。すると大黒天は「万法(あらゆるもの)が円満に備わっていることを表しているのです」と答えた。「では、老人の姿になっているのは何故ですか」大黒天は「久遠正覚蔵長けて、世間相常住(ありのままの境地を保っている)を示しているためです」という。さらに最澄が「一人だけで同行者がいないのはどうしてなんでしょう」と尋ねると、「私一人だけが、人々を救護できるからです」と答えた。また大黒天の目が細く、常に笑顔なのは「慈しみをもって衆生を見ているため」であり、背中に担いでいる袋は「福察海無量 (福が無限に入っている)」であることを意味していることを述べた。そして大黒天は「皆が苦しみを離れて、安逸楽にすることが私の大願であり、私は必ずそうする」と強調したと言われております。このような大黒天の願いを信ずる者は、現世は安穏・福裕自在であり、来世は成仏・解脱が疑いないといいいます。たとえ毎日、大黒天を信じて供養できなくても、年に六斉(六回)の甲子の日(干支のひとつで、暦の日にちに配当したもの)に供物を捧げて祭祀すれば、大黒天の加護があって必ず開運するとされています。

7月11日(月)六害日

7月13日(水)盆の迎え火🔥

7月14日(木)満月🌕・六害日

7月15日(金)盆

盂蘭盆:現代のお盆です。亡き人の霊を供養する仏事。本来は旧暦7月15日に行われていた行事となります。平安時代の宮中では、清涼殿に供物を設け、天皇御拝が行われたあり「仏説盂蘭盆経」の目蓮尊者の救母(母を供養する)説話がいわれとされています。

7月16日(土)盆の送り火🔥・初伏(三伏

初伏夏至のあと三度目の庚の日を「初伏」、4度目の庚の日を「中伏」、立秋前後の庚の日を「末伏」といい、この3日を合わせて「三伏」と言います。陰陽五行で庚は金行(金属)、夏は火行(火)で、これを火尅金といい、火の夏の神と金の秋の神が戦うので凶日(悪日)とされています。

7月18日(月)海の日🇯🇵・六害日

7月20日(水)土用の入り・下弦の月🌗

土用の入り立春立夏立秋立冬を四立日(よんりつび)といい、その四立日前の18日間を土用と言います。土用は年に4回あります。

 春の土用 清明より13日目〜立夏前日まで

 夏の土用 小暑より13日目〜立秋前日まで

 秋の土用 寒露より13日目〜立冬前日まで

 冬の土用 小寒より13日目〜立春前日まで

今回の夏の土用は、小暑二十四節気)の終わりの頃から立秋の前日までとなっています。夏の土用とは、夏が終わり、秋となる切替の時期となります。7月23日の土用の丑の日となりますが、土用は「う」がつくもので、黒いものを食べるといいとされ、鰻を食べる習慣は古くからあるとされています。大伴家持(おおとものやかもち)が読んだとされる「石麻呂に吾もの申す、夏痩せに、良しというものぞ、むなぎ(うなぎ)捕り召せ」という歌もあります。現代では江戸時代に平賀源内が神田の鰻屋の亭主に頼まれて「本日は土用の丑の日、土用丑の日のうなぎは薬なり」と書いたところ、その店が非常に繁盛したのが、土用のうなぎの食べ始めと言われていたりしますが、大伴家持は700年代(奈良時代)に生きた人ですので、かなり昔から食べられていたと思われます。いずれにせよ、昔はクーラーなどありませんから、夏の蒸し暑くて、食欲の落ちた身体に栄養補給として、良質のタンパク質と脂肪を含んだ鰻を食べて、夏バテ、夏痩せを防ごうとした生活の知恵だったのかもしれません。

7月23日(土)大暑・土用丑の日

大暑二十四節気)この頃は暑さも絶頂に達し、酷暑の候でもあります。土用の丑もこの頃です。田の草取りの最中でもあり農家は大忙しです。旧暦では夏の季節もそろそろ終わりになります。まだまだうだるような暑さが続く時期ですが、昔は軒先に風鈴をつけて音で涼を楽しみ、窓によしずをかけて陽射しを避け、川に船を浮かべて涼しい風にあたるなど、自然の中に涼を見つける納涼文化が日本にはあります。暑い時期ですが、風流に過ごしてみてください。

7月26日(火)中伏・六害日

7月28日(木)名越の祓・七曜陵逼終

名越の祓:旧暦の名越の祓(夏越し祓)となります。内容は先月の30日の所を参照してみて下さい。

7月29日(金)新月🌑