神様のお話【牛頭天王】


写真は隠れ宿の祭壇ですが、そろそろお正月も終わりますね。今回の神様のお話は、お正月に因んで前回の記事で書きました牛頭天王頗梨采女を最初から最後まで通して書いてみたいと思います。このお話に陰陽道に関連する色々な神様が出てきます。まずは牛頭天王縁起(物語)を読んでいきましょう。


牛頭天王縁起】

つらつら考えてみるに、北天竺の摩訶陀国(まかだこく)の霊鷲山(りょうじゆせん)の東北、波尸那城(はしなじょう)の西にあたる吉祥なる天の下に、王舎城という都城があり、その大王を商貴帝(しょうきてい)といった。
商貴帝(しょうきてい)は、かつては天竺の神々の王である帝釈天に仕え、色欲や食欲から離れた者の住む善現天と呼ばれる天界に住んでいた。当時、商貴帝はもろもろの星の世界の監督目付をつかさどる天界の司法官職(探題)を帝釈天から授かり、欲界、色界、無色界の三界を自在に飛び回っていた。そのときの名を天刑星(てんぎょうしょう)という。この天刑星が地に下って人間界に転生し、仏縁と深い縁で結ばれた王舎城の大王となったのは、その神仏を敬い信じる志が抜きん出ていたためである。

地に下った天刑星は、名を牛頭天王(ごずてんのう)と改めた。鋭く尖った二本の角を頭から突き出し黄牛の面貌をした牛頭天王の姿は、まるで人を傷つけたり食らうことをなりわいとする夜叉さながらであり、その威勢は周囲数十里におよんだ。その顔が、他の者とはまるで異なる異相であったため、牛頭天王にはお后というものがなかった。姿かたちが夜叉と似ているからといって、祭政(さいせい)まで暴虐だというのではない。天王は、実にすぐれた為政者であった。それゆえ、すべての国民は、こういって王を称え、かつ嘆いた。
「天王はかつて一度も祭政を怠ったことがない。おかげで国は豊かに栄えている。風雨の害もなく、五穀は種も蒔かないのに実り、くさぐさの宝物も、求めないでもやってくる。かくもすばらしい治世なのに、天王にはお后様がない。これでは、天王の治世が子孫に受け継がれて、後々まで安楽の世を楽しむことが期待できないではないか」
人民がこう悲嘆にくれていたとき、虚空界(こくうかい)から一羽の青い鳥が飛来した。瑠璃鳥という名のその鳥は、翡翠のような形で、声は鳩に似ていた。その瑠璃鳥が、牛頭天王の目の前まで飛んできて、こうさえずった。
「わたしは帝釈天の使者で、かつてはあなたの同胞として天界でともに働いていたものです。そのころのあなたは、天刑星と名のり、わたしは毘首羅天子(びしゅらてんし)と名のって、あの頭が二つ、体は一つの人面禽身(じんめんきんしん)の共命鳥(ぐみょうちょう)のように親密な間がらでした。二つの頭のゆえに、語ることに違いはあっても、おおもとの思いは同じ。さながら鳥の両翼、車の両輪のように、天帝にお仕えしていたのです。あなたの信敬の志がひときわ深かったがゆえに、その後、あなた一人が人間界に生まれ変わり、今は地上世界の王たる転輪聖王(てんりんじょうおう)の位に就いておられます。ところがあなたには、后や側室がない。そこで天帝は、后になるべき女性のありかをあなたに教えるべく、かつての仲間であるわたしを使者に遣わしたのです」
こう過去の因縁を語ってから、瑠璃鳥は牛頭天王の未来の后の住むところを、このように告げ教えた。

「摩訶陀国から南に向かった海の向こうに、沙竭羅(しゃから)と呼ばれる龍宮があり、三人の美しい妃がいます。第一の明妃(みょうひ)は金毘羅女(こんぴらじょ)といい、第二の明妃は帰命女(きみょうじょ)といいますが、この二人は請われて北海龍宮の難陀龍王(なんだりゅうおう)と跋難陀龍王(ばつなんだりゅうおう)の兄弟の龍王に嫁ぎ、今はそちらにお住まいです。残る一人の明妃を、頗梨采女(はりさいじょ)といいます。紫磨黄金(しまおうごん)の輝くばかりの肌、仏菩薩の身に現れるという八十種の高貴で華麗な相を備え、閻浮檀金(えんぶだいきん:赤黄色で紫色の焔気を帯びた金) のようにうるわしい姿かたちは、月の桂に備わるという三十二の仏菩薩の相を引き写したかのようです。この頗梨采女こそ、あなたのお后となるべき女性。彼女を娶るべく、沙竭羅龍宮(しゃからりゅうぐう)に向かいなさい」こう告げて、瑠璃鳥に変化した毘首羅天子は、虚空界へと戻っていった。


瑠璃鳥のお告げに喜んだ牛頭天王は、三日間物忌(ものいみ)して、心身を清めた。それから、はやる心で馬車を用意させ、眷属(けんぞく)を率いて意気揚々と南海に向かった。求める龍宮は八万里の彼方(かなた)にあったが、まだ三万里にも達しない南天竺の夜叉国のあたりで、早くも人馬は疲労困憊した。夜叉国の王は巨旦大王(こたんだいおう)という鬼王(きおう)、国民はすべて魑魅魍魎(ちみもうりょう)の類いであったが、それでも一夜の宿くらいは得られるだろうと一安心し、天王は城門を見やった。ところが巨旦大王は、天王を激しく罵倒して城門を閉じ、王の一行の通過を拒んだ。やむなく天王は、空しく舌打ちして、その地を去った。これといった宿も見つからないまま、一行はさらに千里ばかり進んだ。やがて松の生い茂る園に行きあたったので、そのまま林の中を進んでいくと、手に機織りの道具と笊(ざる)を持ち、竿(さお)をかつぎながら松葉を拾っている、貧しそうな女と出会った。
「おまえに家はあるか。あれば、少しの間、休ませてはもらえぬか」
天王がたずねると、女が答えた。
「わたくしは巨旦大王の奴隷(どれい)の身の者でございます。ほんのささやかな寝場所があるばかりで、それも王城内の従者長屋(じゅうしゃながや)の一角でございますから、とても貴方様のようなお方にご休息いただけるような場所ではございません。それより、ここから東方1里ばかりの庵(いおり)をおたずねなさったらよろしゅうございましょう。浅茅(あさじ)の生い茂った原っぱにある、黴(かび)の生えたような粗末な庵ですが、蘇民将来(そみんしょうらい)という男が住んでおります。貧乏でろくな蓄えも収入の道もない男ですが、慈悲の志が厚く、困っているものなら救わずにはいられないような敬神(けいしん)の者でございますから、その者に宿を求めるのがよろしかろうと存じます」

これを聞いた天王は大いに喜び、教えられた道を急いだ。

やがて、柴(しば)を門とし、藁(わら)で屋根を葺(ふ)いた蘇民将来の庵に行き着いた。歳とった翁(おきな)が柴の箒(ほうき)を手にして、庵の塵(ちり)を掃き出し、藁靴(わらぐつ)を履いて庭の雑草を刈り取っている姿が見える。天王はただちに荒れ野の獣道(けものみち)に人馬を進め、くだんの老翁(ろうおう)、蘇民将来に一夜の宿をたのんだ。老翁は、にっこりとほほ笑みながら答えた。
「主と申しまして も、ごらんのとおりのその日暮らし。家も宮殿にははるかにおよばぬあばら家でございます。お殿様のご家来衆までは、とても入りきれるものではございません」
「いやいや、私一人が泊めてもらえれば、それでよいのだ」
天王がこう答えたので、老翁はさっそく梁粟(りょうぞく)の茎(くき)を敷いて場所を整え、天王のために上座をつくった。天王は歓喜して席に着いた。次に老翁は、群臣(ぐんしん)のための席をつくり、また下っぱの家臣のためにも、下座の席を用意した。狭いあばら家だったにもかかわらず、不思議なことに、一人として家からはみ出る者はなかった。
「長の旅で人馬とも疲れている。何か食べるものはないだろうか」
天王の求めに対して、蘇民将来が答えた。
「ごらんのとおりの赤貧(せきひん)でございますから、米の一升(いっしょう)すらございません。
でも、瓢(ひさご)の中にわずかばかりの粟(あわ)がございます」
粟は、すべてをかき集めても、器に半分ほどの量しかなかった。ところが、これを煮て食器がわりのナギの葉に盛って供(きょう)すると、不思議なことに、天王をはじめ、すべての眷属に漏れなく行きわたった。感嘆して、天王が言った。
「あなたの志は、まことに人並みはずれて優れたものだ。禄は年老いたやもめ男にも劣るほどだが、心は富貴で、高徳の君子にも勝っている。その志に深く感謝する」
こういって、天王は亭主に千金を与え、彼の志を称えた。やがて朝が来た。鳳凰の声を聞いた天王は、急ぎ馬車を整え、南海に向かう準備を始めた。それを見た蘇民将来が天王に旅の目的をたずねてきたので、天王が答えた。
「私は天竺の王で、いまだ后がないので、南海の明妃を嫁に迎えに行くところなのだよ。ここから沙竭羅城までは、あとどれほどの道程かね」
「北天から南海までは、八万里ほどの道程でございます。お殿様は、まだ三万里も進んではおられません。しかも馬車で行けるのは、ごくわずか。南海の海の底までどうやって進み、どうやって龍女(りゅうじょ)にお会いなさるおつもりですか」
これを聞いた天王は打ちひしがれ、北天竺に戻ろうとした。すると、老翁が言った。
「私は隼鷂(はやたか)という名の宝船(ほうせん)を1艘(いっそう)もっております。龍頭(りゅうとう)や鷁首(げきす)のように両端の高く張り出した船で、船脚がとても早く、瞬時のうちに数万里を進みます」天王は手を打ち足を踏み鳴らして喜び勇み、ただちに車馬を捨てて船に乗り込んだ。たちまちにして龍宮城に至ったのであった。


龍宮についた天王は、ただちに用向きを龍王に告げた。来意を知って龍王は大いに喜び、急ぎ不老門(ふろうもん)を開いて天王を招き入れ、長生殿(ちょうせいでん)に導いた。そこで天王は、ようやく目指す頗梨采女と出会い、千万年の幸福な契りの縁が結ばれたことを祝いあった。龍王は山海の珍味を尽くして天王をもてなし、天王は長く龍宮に逗留(とうりゅう)した。頗梨采女との仲はますます睦まじく昼といわず夜といわず互いにぴったりと寄り添って、一時も離れることなく夫婦の情を育み確かめあった。
かくして二十一年の歳月が流れた。その間、二人には八人の王子が生まれた。長男の総光天王(そうこうてんのう)を筆頭に、魔王天王(まおうてんのう)、倶摩羅天王(くらまてんのう)、得達神天王(とくだつてんのう)、良侍天王(りょうじてんのう)、侍神相天王(じしんそうてんのう)、宅神相天王(たくしんそうてんのう)、蛇毒気神(じゃどっけしん)である。こうして八王子を得ると、牛頭天王に望郷の念が生じた。そこで天王は、八王子を呼んでこう告げた。
「息子たちよ、私は北天竺の王たる者である。かつて后を求めて南海を訪れたとき、途中で広遠国(こうえんこく)という国を通ったことがあった。その国の王は巨旦大王という鬼王で、国民はすべて魑魅魍魎の類いであった。私が一宿(いっしゅく)を求めようと門前に進むと、巨旦は怒りで目を吊りあげながら私を罵倒し、弾き出したが、そのときの私は、物忌をして心身の穢れを祓った身であった。それゆえ、巨旦と事をかまえて穢れがふりかかることを恐れ、その場は黙って立ち去った。けれども、后を得るという大願を成就した今、私はあの鬼王の国と城を破壊し尽くしたいと思う」
この言葉を聞いた八王子たちは、ただちに軍団を組織した。怒りの鎧を身にまとい、魔を下す降伏(ごうふく)の剣、神通(じんずう)の弓など、数限りない武器で身を固めた軍団が蜂起してかの鬼王国に迫ったとき、突然、巨日の顔に鬼の相が現れた。
「これはいかなる不吉の前ぶれか。おのが精気は正しからず、心臓は激しく脈打って動悸がおさまらない。いかなるものの祟りか、深く探るべし」
突然、鬼の相に襲われた巨旦は奇異(きい)の念に打たれ、博士に命じて占わせた。博士が答えた。
「天地陰陽の巡りの数を計算し、亀卜(きぼく)によって神意をうかがうに、これは国の滅亡の前兆でございます。昔、北天竺の牛頭天王という王が妻を求めて南海に赴く際、巨旦様は門を閉じてかの王を罵倒いたしました。そのとき牛頭天王は、物忌中(ものいみちゅう)ゆえ、あえて戦うことなく通り過ぎたのでございます。それから二十一年、牛頭天王は南海に至って頗梨采女を娶り、八人の王子をもうけました。今、その八王子が四衆八龍(ししゅうはちりゅう)など数百数千の眷属を引き連れて、わが君の城都を滅ぼそうとしております。この禍(わざわい)から逃れるすべはございません」
「何かこれを解除(はらう)ための祭祀(さいし)はないのか」
鬼王の間に博士が答えた。
「千人の僧侶を供養するなら、この禍を祓うことができましょう。それで僧侶たちに、泰山府君(たいざんふくん)の法を行(ぎょう)じさせるのでございます。さすれば、解除の霊験は必ずやあらたかなものとなるはずでございます」
この言葉を聞いて鬼王は歓喜し、ただちに手を打った。まず天には鉄の網を張り、地には盤石(ばんじゃく)を敷きつめ、城の四方には鉄の築地(ついじ)を巡らせた。さらに太い堀を掘って、敵の襲撃にそなえた。また、城の内部には、僧侶のために宝石でできた殿社を造り、清らかで美しい床を張って荘厳した。その宝殿の八方には、喜んで歌い舞う大衆と、男女の仏教修行者が配された。さらに、法を行じる高僧のために羅綾(らりょう)を打ち敷き、華麗な花笠や飾り布、旗などで飾り立てた高座(こうざ)を設けた。その高座で、高僧たちはもろもろの霊験あらたかな呪文を唱えたのであった。

そのとき牛頭天王は、巨旦の居城を眺めていた。鉄で覆われた城はいかにも威風堂々(いふうどうどう)として頑健そうであり、いかなる神力や法術をもってしても、攻めがたいように思われた。
そこで天王は、阿〓羅(あにら)と摩〓羅(まにら)の両鬼を使って偵察させたところ、鬼は戻ってきてこう報告した。
「修行僧の中に、行を怠って居眠りしながら呪文をそらんじている者がおります。そのため、呪文がいいかげんなものとなり、頑丈に防御したつもりが、窓に大穴が生じております。
それを聞いた牛頭天王は、神力の翼を得て鬼王の城に攻め入り、もろもろの眷属とともに、巨旦の一族を滅ぼした。そのおり、天王は、かつて松林で出会った巨旦の女奴隷のことを思い出した。
「あの女は巨旦の婢(はしため)だが、私にとっては恩人だ。あの女だけは助けてやろう」
そう考えた天王は、邪気を避ける桃の木を削って札をつくり、そこに「急急如律令」の文を書き記した。ついで指で札を弾き飛ばすと、木札は彼女のたもとに入り、その功徳(くどく)で、彼女だけが災禍から免れることができたのである。

その後、天王は巨旦の死骸を五つに分断して五節句に配当し、おごそかに巨旦調伏の祭儀をとり行った。ついで北天竺への帰途、蘇民将来の家に立ち寄ったところ、蘇民将来は以前とはうってかわった長者ぶりで、五つの宮と八つの宮殿を造営して、天王と八王子の帰国を待ち受けていた。そこで天王は、三日の間、車を止め、蘇民将来の歓待を受けた。くさぐさの珍菓で饗応する将来のもてなしぶりを喜んだ天王は、彼に夜叉国を与えた。さらに、こう誓って、蘇民将来の子孫の守護を約束したのであった。
「将来よ、私は末の世には疫病神となるであろう。そのとき、八王子や眷属が諸国に乱入することもあろうが、おまえの子孫が、「私は蘇民将来の子孫です』と言えば、その者らを苦しめ悩ますことはしないと約束しよう。おまえを守護するしるしとして、今、二六の秘文を授ける。法がすたれて濁りきった末法時代の衆生は、必ず三毒に耽って(ふけって)、いよいよ煩悩(ぼんのう)を募らす(つのらす)ことになる。天地を形づくる四大(しだい)は調和を崩して乱れ、人は極度の寒冷の病と、懊熱(おうねつ)の病を受けることになる。この寒熱二病は、牛頭天王とその眷属の所業と知れ。
もしこれら病の痛み苦しみから免れたいと願うなら、五節句の祭礼を正しくとり行い、心の内にはしっかと二六の秘文を守って、厚く信敬(しんけい)するように」
こう言って、天王は五節句の祭礼の意味を蘇民将来に教えた。すなわち、一月一日に用いる紅白の鏡餅は巨旦の骨肉、三月三日に供える蓬の草餅は巨旦の皮膚、五月五日の菖蒲のちまきは巨旦のひげと髪、七月七日の小麦の素麺は巨旦の筋、九月九日の黄菊の酒は巨旦の血脈であり、蹴鞠の鞠はいずれの場合も巨旦の頭、的は巨旦の目、門松は巨旦の墓じるしであり、修正の導師、葬礼の威儀は、ことごとく巨旦を調伏するための儀式であると告げたのである。かく説き終えて、牛頭天王は北天竺へと帰っていった。

長保元年(九九九)六月一日、祇園社では、(安倍晴明によって三十日間、巨旦調伏の儀式が行われ、今の世に至るまでその祭儀が継承されている。六月一日の歯固めの儀式は、(五体を分断された巨旦を噛み砕くという密意が込められており)、しっかり行うことが肝要である。悪んでも悪むべきは巨日の邪気とその残族の魑魅魍魎の類いであり、信じても信ずべきは牛頭天王と、太歳、大将軍、太陰、歳刑、歳破、歳殺、黄幡、豹尾の八王子なのである。

*上記の牛頭天王縁起は「安倍晴明占術大全:藤巻一保著」より引用させて頂いております。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
中国系の占いをはじめとして、気学などでも出てきますが、天道神という神様は「牛頭天王」となります。また「歳徳神」=「頗梨采女」=「恵方」となっていたり、「太歳神」=「総光天王」、「天徳神」=「蘇民将来」などになっております。この物語に出てくる「八王子」=「八将神」となり、いま日本で売られている暦にも書いてある神様達です。それぞれの神様ごとに、様々な性格がありまして、この神様が今年はこの方位にいるので、これはしない方が良いと考えられているという事になります。例えば「制神法」を元に神様の関係を見ていきますと、色々な説はございますがホキ内伝では「巨旦」=「金神」と考えています。金神は天徳神と一緒にいるときは障りなしとなっております。また大将軍(牛頭天王の次男の魔王天王)は、天徳神、歳徳神(母親の頗梨采女)、月徳神などが三合となれば、これらの神が制神として働いて、大将軍は吉神となると書かれています。
長くなって来ましたので、また機会がありましたら、他の神様のお話も書いていきたいと思います。