人の生き方とは。

遥か昔から人間というものは孤立するべきでは無いという考え方があります。本来はお互いに助け合うという事が人間の本性を全うする道と考えていく事なのでしょう。

しかし余りに世の中が忙しいとツイツイ自分を中心とする考え方が起こりやすいのですが、自分を中心とするということをしても、最終的に自分自身も満足を得られるものではありません。例えば電車に乗るときも昼ごろなど割合乗る人の少ない時に、お爺さんやお婆さんなど年配の方が来れば「お先にどうぞ」というようなことは誰でもしますが、朝晩などのラッシュなどでは「お先にどうぞ」など言ってはいられないので、年寄りを突き退けても自分が電車に乗るという事になると思います。同じ人であっても、忙しいときは利己的になって、人を押しのけても自分の都合を通す、これが普通の人だと思います。

また精神的な問題にしても同じで、余りにやる事が多い、自分の責任が重いなどといった事などを感じた時は、人を押し退けてでも自分勝手に振る舞うようになるし、心が平和であればそういう利己的な事をやらないで済むものであります。しかしながら忙しくて、或いはやる事が多くて利己的になったのは、やむ得ずにそうなったので、人間の本来の性質からいえば、人の喜びを共に喜び、人の憂いや悲しみを一緒に心配してやれるというのが、人本来の生き方なのだろうと思います。

随分と利己的な人でも、その人の日常の生活を良く見てみると、決して自分一人でいて満足しないものがみえてきます。用もない時に2〜3人が集まって無駄話をしているのを外から聞いていると、考え方が一致している時の方が満足を得られているとみえます。例えば、自分が「今日は良い天気ですね」と言ったときに、相手の人も「良いお天気ですね」といえば気持ちが良いのものです。しかし「良いお天気ですね」と言ったときに、相手が「そんなの空を見れば分かるだろ」といえば気持ちが悪くなります。やはり人は自分がいいお天気だなと思っている時に、人も良い天気ですねと言えばいい気持ちになって、よく晴れた空がいっそう晴れ晴れと見えるものだと思います。
 また昔の話でも傘がないときに外で雨にあってしまい軒先きで雨宿りをして入りときに「あなたも雨に濡れてお困りでしょう、私もすっかり濡れました」というとお互いに濡れた着物を見合わせて、急に着物が乾いたわけではないけれど、着物が乾いた風になった気がするという話があります。どんなに利己的な人でも喜びを共にすれば気持ちが軽くなり愉快になるし、憂いを共にすれば憂いが慰められるという事を考えてしまいます。
 普通ならば別に天気のことを話ししても、雨に濡れたことを慰めあっても儲かるわけでも無くても、利害を飛び越えて喜びを共にして、憂いを共にするというもので一種の満足感を得る、または満足感を感じるというのが人間の本質なのだと思います。

18世紀頃のオランダで、人間は元来利己的であるから国を作るということはしたくないけれども、強いものが迫害したり、天変地異という災害など様々なことがあるから、孤立していては暮らせないのでお互いに譲歩して国を作るのだと言った学者さんがいますが、いまの世の中でもそういう学説によって考えている、また行動している方がいますが、これは誤った学説であると思います。いかなる人間でも孤立して満足を感ずるものでなく、国を作る、国ができるという根底は人々が持っている本性にあると思います。すなわち人は社会性を持っているという事が昔から言われておりますが、これは今も昔も変わらないものです。

上に立つものは下のものの価値を認めて、下にいるものは上の人の苦心を察して、そうして協力一致していくことが、国や組織、家族等の発展の土台であると共に、これによって上の人も満足するし、下のものも満足するので、各自の満足でも国や組織、家族の発展ということでも、どちらから見てもこれは占技でいう「随(ずい)」という事になります。随とは、上に居るものが上に居ないで下に降り、また下に居るべきものが上にいるという事を示して居て、双方の心が通いあう大変めでたいことになります。徳のある君主が上に立っていれば、徳のある君主に賢者が随ってこれを助け、また一般の人も名君、或いは賢者の指導に従って協力してその国を益々盛んにしていくという事、その先は、上に立つものは下のものの価値を認めて、下にいるものは上の人の苦心を察して、そうして協力一致していくそれが「随」という事になります。

しかしながら如何に名君や賢者であろうとも、その努力が長く続かなければ良い結果をあげる事が出来ないのであります。特に上のものは相当な功が立てられてくると心が奢って行いが乱れる、また下のものの気持ちも離反していくという例が随分と多いものです。こういうことは深く戒めなければならないのです。また下のものも功労があって上からも下からも重んじられる様になると心が奢って、遂には所属の組織の害になる行いをする様になる例も随分あるので、初志貫徹ではないのですが初めの気持ちを何処までも貫いていかねばならないのです。上のものも尊敬され、下のものも功労者として尊敬され、お互いに喜びを共にすることができると、これもまた「随」となります。

最初に書きました、遥か昔から人間というものは孤立するべきでは無いという考え方があり、本来はお互いに助け合うという事が人間の本性を全うする道と考えていく事なのでしょう。人の喜びを共に喜び、人の憂いや悲しみを一緒に心配してやれるというのが、人本来の生き方なので、今の世の中もそうなっていく様に望みたいものです。